ゆずりあう
家の打ち合わせをしていると、トイレは一家に2つがあたりまえになっています。
洗面所も、ボウルが二つあって、パウダールームと呼ぶようになってきました。
素晴らしい時代ですね。
でも、なんとなく 心の中に違和感があるのも事実です。
お風呂もばらばらに入って、それぞれの都合で好きに沸かします。
快適さの追求はどこまで続くのでしょうか。
そのくせ、原発反対、ECOだと大きなテレビに向かって叫びます。
みんなのためにゆずる、という美徳をないがしろにして、
個に偏った価値観が強くなっているようです。
社会の一番の基本の家庭でも、個に偏り、食事をしていても携帯のメールをしたり、
テレビを見たり、それぞれがばらばらな方向を見ていて集団が維持できなくなって、
社会が維持できなくなっているようです。
子供は、学校に行かない自由があるのか、学校がおかしいのか、
学校に行かず、時間をもてあましている子供がいっぱいいます。
本当に、国家にとって途方もない損失と思えます。
数十年前には考えられなかったことが当たり前になってきています。
五右衛門風呂を沸かしたのは、小学生の私です。
鍋をもって、豆腐を買いにいったのも私です。
一升瓶で醤油も買いにいきました。
きっと、私も歳をとったのだと思います。
私が生まれたのは、戦争が終わってたった14年しか経っていなかったのですね。
戦争に負けて、自信を失っていた日本人は、数千年かけて培ってきた民族性や美徳を全部捨てて、
国家のことなんてどうでもいい、自分の幸せを求めたらいい時代なのだと大きな声で言われて、
まともに信じてしまったのでしょうか。
戦前生まれの美しい年寄りがいて、町や地域、国や天皇を大切にする心があったのですが、
万博が終わったあたりからどうやらおかしくなったようです。
自分のことだけを考えることは、自由に見えて、実はとても孤独で辛いことです。
親兄弟を殺すのは、他人や社会と交わることができず、家族でさえうるさい存在にしか思えない悪魔のような心になってしまったからです。
自分が良ければ、自分の子供さえ良ければ、自分の家族さえ良ければという偏愛は、
親子ともども利己的な集団ですから、やがて崩壊します。
同じく、自分たちのグループ、会社だけという世界も、例外なく崩壊します。
祖国を愛せない人は、本当の意味で家族も、社員も愛せません。
家族を愛すること、社員を愛することと祖国を愛することは、つながっているからです。
苦しみの原因は、「自分について考えること」です。
自分について考えていないとき、苦しみから解放されています。
戦わないでゆずる、 我慢する、 きっとそれが幸せへの一番の近道のような気がします。