偶像崇拝
旧約聖書、モーセに神が与えた「十戒」のなかで、「偶像崇拝をしてはならない」というのがあります。
そのまま解釈すると、神様を像にして拝むようなことはいけないよ、ということですね。
モーセが、エジプトにあったユダヤの奴隷の民を解放し、約束の地へ向かう旅、
それが出エジプトです。
男だけで60万人と言いますから、どれほどの人数の移動だったのでしょう。
食べ物や、人々の不平不満を解消しながら、リーダーは荒野を導きます。
モーセが留守の間に、兄のアロンが大変なことをしてしまいます。
エジプトで拝んでいたような像が欲しいと騒ぎ出す民衆を抑えきれず、とうとう金の牛の像を造り、
民がそれを拝み、祭を始めるのです。
すると、神様は激怒するわけですね。
約束の土地には、この者たちは入れない、次の世代になるまで荒野を彷徨うのだ、と。
というわけで、40年間砂漠を流浪することになりました。
ユダヤの戒律の中でも、もっとも重要な偶像崇拝禁止。
だから、ユダヤ教は神様の像など絶対拝みません。
イスラエルに行くとき、糸川先生からお土産に人形などは持っていくなと言われたほどです。
ユダヤ人であった、イエスも偶像崇拝はしなかったのに、キリスト教になると教会の中にいっぱいの像があります。
さぞかし、イエス様も嘆いておられることでしょう。
さて、前置きはここまで、ここからが本題です。
人は、つい自分の出会った人を、自分の見たいように見てしまうようです。
たとえば、憧れのスターはウンコもおしっこもしてはならないのです。
マドンナは、おならをしても許されないのです、幻滅ですから。
ある上場企業の社長と何度も旅行をしました。
一代で1千億の企業を立ち上げた方ですが、それ以上に掃除の神様として崇められています。
やがて仏様となるであろう、その掃除の神様と、イスラエル、シリア、レバノン、ヨルダン、敦煌、西安、上海、それから沖縄。
靖国神社にも終戦の日に何度も一緒に参拝しました。
やりとりしたはがきや手紙だけで一冊の本になるくらいの歴史となりましたね。
とにかく、旅先での素顔のままのこの方が素敵で、大好きでした。
バスの移動中など、たわいもない話をして笑い転げたものです。
きっと、この方を神様のように崇拝しておられる人たちから見たら、私の口のきき方に激怒されることでしょう。
「なんという畏れ多い!」って
でも、どんなに偉くても、どんなに凄くても、やっぱり人は人、男は男、くだらないところもいっぱいある一人の人間です。
そこが見せあえる関係になってこそ、一緒に人生を歩ける友となるのではないでしょうか。
「赤塚さん、私もね外ではまあ、それなりに尊敬されたりしてますよ。
うちの家内もちょっとくらいはそういう声を聞いたらいいのに」
「私はね、1日家にいることはまずありません。 元旦も、昼から掃除に出かけますからね」
・・・よっぽど、お家の居心地悪いんですね!
「そうです、 わはは!!! でもね、赤塚さん、
お客様と女房は、言い負かせたところで何一つ得することありませんからね。
絶対に議論してはなりませんよ」
思い出してみると、風景まで蘇ってきますね。
人をまるごと受けとめるのは、容易ではありませんし。
神様にはできても人間にはできないのかも知れません。
自分の子供に対してでも、ありのままを受け入れることできず、愛したいようにしか愛せない、条件がついてしまいます。
人間関係の中でも、「あなたはそんな人ではないと思っていた」というような場面が生まれます。
自分の作り上げた偶像で、相手を崇拝するのは苦しみです。
でも、何度も何度もそんな経験重ねながら、私たちは大人になってゆきます。
この世での学びは、「人間関係」と「経済問題」ですから。