契約とやくそく
いささか疲れが溜まってしまっていたようなので、思い切り早く寝たら、
夜中に目が覚めてしまった。 しまった!
で、結局、またパソコンに向かうことに。
夢かうつつか、ふっと、心に浮かんだのが「聖なる約束」という本のタイトル。
東京品川の船井本社で、勝仁さんと山内尚子さんとのミーティングしているときに、
誰からともなく出てきた言葉でした。
本を書き終えて、改めて人智を超えた力を感じずにはいられないのです。
なんと深い意味を秘めたタイトルの本になったことでしょうか。
私は29歳のとき、糸川英夫博士の導きで旧約聖書に触れ、
42歳、シリアはダマスカスで、キリストの使徒パウロの声を聞くと言う霊的体験を通し、新約聖書とつながりました。
キリストの幕屋という信仰のグループの中で、聖書を学ばせていただき、この人類最古の本に流れる命を知りました。
神と人間との「契約」の書が、聖書です。
アダムとイブ、 この最初の人間がエデンの園にある智慧の実を食べたところから、人の苦しみが始まります。
「その実を食べたら死ぬ」と神が言ったのに、大丈夫だという蛇の声を聞いた女が食べ、男に食べさせ、知恵がつき、
お互いが裸だと知ってイチジクの葉っぱで隠す場面は象徴的ですね。
聖書は、読んだ人の数だけ解釈が生まれます。
そして、解釈の本も無数に出ています。
しかし、この驚くべき霊的書物は、理解するのではなく感じなければ腑に落ちてきません。
人の死とは、肉体の死をいうのではなく、知恵がついて自我が生まれ神から離れることを言うのだと聖書は教えます。
エデンの園には、もうひとつ「命の木」があり、
神は、人がそれに近づかないようエデンの園から追放し、エデンの東にケルビムと回る炎のつるぎとを置いて道をまもった、とあります。
・・・ 初めて読んだときは、ちんぷんかんぷんですよね。
世界中で知らない人がいない場面ですが、この物語に秘められた真実とは何でしょう。
私たち人間は、どんなものでも創りだすことができるような錯覚をもっています。
ですから、知らないうちに「子供を作る」などという言い方をしてしまいます。
しかし、髪の毛一本たりとも人間には作ることなどできないのです。
ましてや、命あるモノを産み出すことは人間の力では不可能なのです。
私たちが作られたものであり、その創造主がだれであるのかを聖書は解き明かします。
知恵の実を食べたら死ぬという、この一言に真実があります。
そうです、知恵がついて生まれるのが「自我・・エゴ」です。
その瞬間、人は神から離れ苦しみの世界に放り出されてしまうのです。
それが「死」の世界、苦しみの世界の始まり。
「命の世界」・・・つまり、神の中に、再び帰る道を私たちひとりひとりが生かされているのですが、その命に触れるには知識ではダメだというのです。
なぜなら命の木に近づかないようにおかれた回る炎のつるぎとは、「人の思考」のことでしょう。
思考とは言葉、そして自我。
それを超えた命の世界に入るには、言葉を捨てて、自我の終焉を迎えねばなりません。
人が安心立命、まことの平安の世界に生き、この世が天国になるための道を解き明かした聖書は、
神と人間との契約が書かれています。
旧約と新約とは何か・・・ 救い主イエスの正体とは・・・
ブログに書くにはとても大きな話ですからこのあたりで止めておきますが、
いつかきちんと聖書の学びの会などやりたいなぁと思っています。
なぜなら、聖書が分かるとヤマトの神話、古事記がとてもよく魂に響くようになるからです。
ここまで書いた話をどうして思い出したかというと、11月15日の京都での出版記念会の会場であるKBSホールの舞台の壁面は、
この創世記エデンの園の物語が左半分、ノアの箱舟が右半分、それらを描いた巨大なステンドグラスでできているのです。
なぜ京都御所の隣にこんなものがつくられているのか、よくわかりませんが、ここで何か不思議なことが起きる予感があります。
これは私の直感です。
だから、出版記念会を東京でもなく、大阪でもなく、ましてや伊勢でもなく、京都でやることにしたのです。
11月15日といえば、京都で33歳で死んだ坂本竜馬の命日であり、彼の誕生日でもあります。
ま、それが関係あるかどうかはさておき、「聖なる契約」が聖書だとしたら、
私たちヤマトの民にとって「聖なる約束」とはなんでしょう。
「神との契約」と「かみさまとのおやくそく」
なにかいきさつを超えた、目に見えない大きな力によって運ばれているような気がしてならないのです。
ご縁ある方には、11月15日 奇蹟の目撃者になっていただきたいと願わされてなりません。
http://kokucheese.com/event/index/214887/ 申し込みはここです。