赤塚高仁 物語

2.両親

父、次良じろうは、9人兄弟の次男。
実家は魚屋。 長男があとを継ぐので、何をして生きるのか考えた挙句に入った世界は、東海ラジオの一期生。
今でいうDJ、局のアナウンサーのような司会者のような、まだまだ混沌として世間でもあまり認知されてない仕事だったようだ。
東海次郎といういかにも安易な芸名で、地元のお姉ちゃんたちに受けて、喜んでいたと聞く。
東海次郎の仲間のプロのジャズバンドで、専属の司会や歌を歌っていたそうだが、そのバンドの女性ボーカルとギタリストとの間に生まれたのが、あべ静江である。
しかし、父がヤクザな稼業についたのも、若くして大好きな母を病いで亡くし、少しぐれてしまったからだと兄弟たちは言うが、他の兄弟は皆、マトモでカタギであることからみても、当たり前のことをコツコツ続けることが苦手であったに違いない。

赤塚高仁の性格は、父の遺伝子に影響を受けているのかも知れない母、知子は、10人兄弟そのうち女が8人という恐ろしい家に生まれている。
祖母というのが、常に人を比べる人で、兄弟同志でもいつも比べられており、みんなとても仲が悪い。
見栄と体裁のためなら命も捨てる。
ある叔母などは、自分の息子は大阪大学の医学部に入って医者になるために勉強している、と言っていた。
赤塚高仁大学生の時、突然その家を訪ねた時、阪大生のはずのいとこはコックの見習い中であった。
すべてウソだった。
金をもらって口止めされた。
その場しのぎの赤塚高仁の性格は、母の遺伝子に影響を受けているのかも知れない。

母は非常に神経質な人で、長男も神経質に育てた。
母が小さい頃、可愛がっていた弟が盲腸で死んだ。
医者は、「もうちょっと早く抗生物質を打っていたら助かったのに」といい加減なことを言ったそうだ。
以来、母の中で抗生物質が神となった。
息子がお腹を下しても、熱を出しても、風邪をひいても、家に常備しているペニシリンだのクロロマイシンだの、抗生物質を注射した。
母の姉が医者に嫁いだので、注射器や薬をもらっていたようだ。
シャブ中患者のようで、実にあやしい。
盲腸になってもいないのに、赤塚高仁は五歳の時手術で盲腸摘出。
小学校の卒業時にも入院させられ、痛くもない扁桃腺を切られた。痛くなったらいけないから。
のちに、赤塚高仁はほとんど耳が聴こえておらず、補聴器無しでは日常生活に支障をきたすほどであることが判明するのであるが、聴神聴神経が死んでしまったのは、抗生物質の薬害であることを知り愕然とする。
母は、抗生物質の薬害であることは知らないし、知らせる気もない。
息子を思う愛情と感謝する。
神経質な赤塚高仁の性格は、母の遺伝子に影響を受けているのかも知れない。

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